ハンセン病問題研究会

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「 新 型 イ ン フ ル エ ン ザ 騒 動 」 と は い っ た い 何 な の か
                     ―村岡 潔教授に聞く


 4月25日から新聞やテレビは、いわゆる「新型インフルエンザ」報道で埋め尽くされた。日本では、社会で起こっていることを迅速に伝え論評を加えるというメディアのジャーナリズム機能の劣化が指摘されて久しい。
 今回もおよそ1カ月間、市民は報道に振り回され、一時はマスク姿の人で街(特に関西)はあふれかえった。
  4月25日以降のメキシコ、北アメリカでの患者発生の報道から始まり、5月9日、カナダから帰国した大阪府内の高校生から患者発生、入院、停留、神戸市内の高校生の発症など、そのたびに報道は冷静さを失っていった。しかし、5月20日過ぎに首都圏で患者発生のニュースが伝えられるや事態が急速に収束に向かったのはなぜだろうか(6月9日現在も各地で患者の発生が確認されているにもかかわらず)。
 一連の動きのなかで、大阪府内の高校生に対する誹膀・中傷、関西の観光業への大きな打撃、患者が出た学校職員へのタクシー乗車拒否など、「新型インフルエンザ」に対して過剰な反応や患者への忌避が引き起こされたと伝えられている。
 この「新型インフルエンザ」騒動をどのように捉えればよいのだろうか。医療と社会の関係を研究する村岡潔さん(佛教大学教授)にお話を伺った(編集部)。



感染と発病は別

 4月下旬から約1カ月間、いわゆる「新型インフルエンザ」について新聞やテレビで連日報道され「感染」「感染者」という言葉が新聞の見出しやニュースでも大きく出てきますが、これらの医学用語について報道での言葉の使われかたは曖昧で非常に問題です。
 そもそも感染とは、病原体が生体内に侵入、定着、増殖し、生体に何らかの病的変化を与えることですが、感染は必ずしも発病を意味しません。ここが重要です。
 感染には、顕性感染と不顕性感染があります。インフルエンザの場合、感染後、熱が出たり吐いたり、せきをしたりして症状を示して発病する場合は顕性感染。一方、感染しても発病する以前や身体がウイルスに抵抗して発病することなく終わる場合を不顕性感染といいます。
  (顕性)感染者(=患者)が1人いると、周りには不顕性感染の人が、およそ10倍から100倍いると考えるのが普通なのです。これは医学的には常識なのですが、新聞やテレビでは何の説明もなく「感染者」というだけなので、顕性感染者でなければ感染していないという誤解を与えています。またインフルエンザと いうのは、安静にしていれば普通は自然に治るものだということも理解されないままになるわけです。
 私は、顕性感染着には「患者」という表現を使用するべきだと考え四月に朝日新聞社にも電話で申し入れしました。
  顕性、不顕性感染は医者にとっては常識なのですが、公衆衛生学者は患者より「感染者」を使いたがります。たぶん、メディアのニュースソースが主に公衆衛生の分野からなので報道では感染者を使っているのだと考えられます。また、記者たちは記者発表を鵜呑みにして、きっと批評や検討なしにそのまま記事にするからよけいに曖昧になるのでしょう。正確には感染者でなく患者と書かないといけません。もしくは顕性感染と書くかですね。
 また、一般市民が知りたいのは人数より患者の症状は軽症か重症か、どんな状況なのか。もっと自分に関わる詳しいことが知りたいはずです。
  ちなみに感染症とは、微生物(細菌・ウイルス・真菌・原虫など)がヒトまたは動物の体内に侵入して、臓器や組織あるいは細胞の中で分裂増殖し、その結果として引き起こされる病気(疾病・疾患)のことで、感染する微生物と、感染した宿主の抵抗力のバランスの上で成り立つ現象なのです。伝染病とは感染症の中でもヒトからヒトヘ伝染していくもので、インフルエンザ、赤痢、ペスト、マラリアなどに代表されます。

  私は看護学生や医学生にも授業をしていますが、「結核の原因は何ですか」と聞くと即座に「結核菌」と答えが返ってきます。ところが私たちの「医学概論」の領域などで考えるとそう簡単ではありません。例えば「女工哀史」などでも分かるように労働条件・生活条件が悪くても病気になります、逆に結核菌に感染していても体力があると発病しないので、結核菌に感染しただけでは病気ではないのです。
 前述の学生の答えは医学理論の一つである「特定病因 論」を背景にする考え方です。病因論とは、病気(疾患・疾病)の原因は何かを規定する医学理論ですが、特定病因論と多元的病囚論があります。特定病因論(病原体説)は単一病因論ともいい「病気には、それぞれ特定の根本原因(単一原囚)がある」とする近代医学の中心的概念です。
 十九世紀後半、パ スツールやコッホによる病原細菌学の誕生を契機に疾病概念が「近代化」され、伝染病の根本原因は、身体の外部から内部に侵入してくる外敵のイメージを持った「病原体」と認識されるようになり、その病原体を特定し殲滅することが根本的治療戦略となっていったのです。細菌やウイルスなどを目の敵にして細菌やウイルスだけをやっつけてしまえば、問題は解決するという考えの大元にこの特定病因論があります。

 

病原体だけでは病気にならない

  コッホらの特定病因論に対し、多元的病囚論をとったのは衛生学者ペッテンコッフェルです。彼はコッホより20歳余り年上でドイツ最初の衛生学の教授といわれる人です。彼は、今日風に言えば三因子説、つまり発病には個体囚子・環境因子・接触性病原囚子(病原体)の三囚子が関係し、病原体だけでは必ず病気になるとは限らないと説きました。
 近代医学では特定病因論(病原体説)が主流になりました。コッホやパスツールが桧舞台に上がった19世紀は科学勃興の時期で、科学は希望をもって語られました。しかも科学理論では単純に説明できる理論のほうが真理として採用されやすかったわけです。
 しかし、病気というのは色々な.要素が絡み合った時、初めて出てくるものであることを大前提にしないと誤解や判断ミスを起こしてしまいます。
 「特定病囚論」はこのように病気の原因を非常に単純化して捉える考え方ですが、今回の「インフルエンサ騒動」の背景にもこの考え方があります。


生かされていないハンセン病の反省

 また、私たちの間では「最重症主義」といっているのですが、医師や感染症学者の間には、最もひどい場合を想定して取り組んだほうがいいという発想があります。
  科学は全て正しいという思想のもとに「特定病囚論」に立つ医学の知識・考え方を地上に実現させ、地上の楽園にしたいと思っているわけです。キリスト教の神学に近い考え方ですね。やなせたかしの絵本に登場する「ばいきんまん」みたいに悪魔を想定してそれをやっつけろ!という考えで、民衆に非常に受け入れやすい考え方です。つまり、100%ばい菌がいなくなるという、ありえない状態を想定し、そのためにはタミフルやワクチンを何万人分用意しなければならないなどとして国民に余計な負担を強いるわけです。まあ、それを喜んでいるのは製薬会社なのですが。
 このように最悪の状態を想定するわけですが、彼らに、そういうことが起こるとして、どのくらいの確率で起こるのかと聞いたとしても「それは分からない」が「備えあれば憂いなし」といった答えが返ってくるだけしょう。
 今回のインフルエンザ対策でもウイルスの正体がわからないまま、強毒性の鳥インフルエンザ(H5NI)を想定した「新型インフルエンザ対策ガイドライン」が実施されました。
  例えば、水際対策ですが、厚労省の現役検疫官が「水際作戦(機内検疫)は政府のパフォーマンスだ」と言って批判をしています。これは当然のことで、空港での検疫の際、熱などの症状がある人だけ引っ掛けて、症状がない人はそのまま通すわけですから水際作戦は意味がないと思います。しかも、物々しいマスクや防護服などが報道で映し出されて視聴者に非常に恐怖感を与える効果をもたらしました。ハンセン病の時と同じですね。病気なのだ、怖いという印象を与えてしまい、やっている側はそのことに気がつかない。ハンセン病の時に経験しているはずなのに、今回も同じことをしているのです。
 水際作戦をしても、不顕性感染の場合、症状が出いないから掴みようがありません。全員を留めて鼻から検体をとって検査をすれば見つかるかもしれないけれど、それは無理だし人権侵害です。水際作戦をしたかったら鎖国状態にするしかない。しかし、そうなったら経済も何もかも冷え込んでしまう。水際作戦が成り立つのかどうか、検証する必要があると思います。

 

市民的常識 に立つ対応を

 新聞やテレビでは、今、次は秋くらいにもっと強い第二波が来るかもしれないと報道しています。スペイン風邪(1918〜19)の時の ように何十万 人かが死ぬ計算になるなどとして人びとを不安に陥れているわけです。スペイン風邪が流行した当時は第一次世界大戦の最中、戦場でインフルエンザが拡大し、そして人も社会も戦争などで疲弊していた頃だったから死者も多く出ましたが、現在とでは全く条件(日本の場合、衛生・栄養などの状態)が違います。また、 1世紀近くたっていますし、アジア風邪の時代(1957)、香港風邪の時代(1968)があり、死者の数は一桁小さくなってきているのにいまだにスペイン風邪の時のことを基準にして問題にしているのです。また、ウイルスは強くなることもあるけれど弱くなることもあるのです。
 そして、国は抗ウイル ス薬タミフルがないとダメだと強調しています。タミフルは直接ウイルスをやっつけるのでなく抑えるだけで、むしろ耐性をつくるほうが逆に怖いのです。薬の有効性がまだ分からないタミフルを予防にも使うとも言っていますが、予防には使うべきでありません。風邪というウイルス感染に対しても抗生物質を使う医者がいますが、これも危険なのです。
 私は「子どもがインフルエンザにうつったかもしれない」と心配する親には「体力を使わないで疲れないように暖かくして休ませるように」と言っています。 本人の治る気力、自然治癒力、体力、免疫力がまずあって、その上で薬を使用すべきなのです。
 今回、予防には、「手洗い、うがい、マスクの着用」が呼びかけられましたが、それ以前に日頃から「過労な状態にならないように、規則正しい生活をするように、咳が出た場合は注意してあげる」など心がけるのが大切です。
  問題は、これまで「感染」など、むつかしいことでない基礎的な医学常識なのに市民には十分に知らされず、医者任せにされていることです。医者だけが知識を握る知識の不平等な配分が混乱を助長しています、市民が医学知識をもち、自分の感覚で対処できるようにすることが人切です。
 今回の騒動が起こ り、テレビ報道でも、電車に乗っても、市民や学生がみんなマスクをしていて気持ちが悪かったですね。私はしませんでしたが、マスクもパフォーマンス、ファッションですね。「私は咳を飛ばしません」という意思表示かもしれませんが、マスクも相手を怖がらせる装置のひとつです。


最大の被害者は誰か

 今回、一連の動きを見ていてもっとも問題だと感じたのは、なぜ「新型インフルエンサ」だけを大騒ぎをして取り上げるのかということです。目本では、死者は1人もでていないことからもわかるように、患者はみんな軽症です。ほとんどが入院の必要もなかったということが神戸市保健所の報告書(暫定報告)でも出ています。
 もしかしたら普通の季節性インフルエンザより軽いかもしれません。毎年の普通のインフルエンザは、多い年は日本で1千万人が罹って1万人近くの人が肺炎などで死亡しています。まず、国が取り組むならこちらの方でしょう。それをせず、なぜあえて「新型」として、それだけをメディアが取り上げるように仕向けたのか、何か意図的なものを感じます。たとえば「鳥インフルエンザ」などに備えた演習をしているような気味の悪さを感じます。医療は社会的には国民を統制する手段でもあり、私たちが注意をしていないと、政府が何かいいことをしているように思ってしまう危険性がいつもあります。
 そもそも報道には、多様な意見があってよいはずなのに、「大本営」発表一色になり、ジャーナリズムとしての機能が不全になっていることが今回、いっそう明らかにもなりました。
  神戸で国内発生が明らかになったのは、たまたま神戸の医者が検査に出したから発覚しただけで、他のところでも起こっていたと思います。海外との接触や交流が多いのは東京ですが、東京は意図的に検査をしなかったのか患者の発生状況がほとんど報告されていません。これは、首都防衛第一の判断が大きいのかなどとも思いますね。
 今回、一番被害を受け犠牲になったのは高検生たちです。成田での空港検疫や、また大阪府内などでも高校生たちを中心に隔離入院を強いていますが、まさに社会防衛の思想であり犠牲者(患者)非難イデオロギーの表れです。
 高校生たちは今回、差別や偏見に直面して、閉じ込められたなかでトラウマを抱えさせられているのではないか、それが気になります。

(2009年5月29日インタビュー。編集協力:つむら・あつこ)
村岡潔 プロフィール
佛教大学社会福祉学部教授(医学概論、医療 思想史、医療社会学)。日本医大卒。救急医学、脳外科で臨床勤務後、大阪大学医学部大学院で集団社会医学概論を専攻。日本生命倫理学会および日本医学哲学倫理学会評議員。日本衛生学会、日本保健医療社会学公等会員。ハンセン病問題研究会世話人代表。共著として『現代医療の社会学』(世界思想社)、『医療神話の社会学』(同)、『文化現象としての医療』(メディカ出版)、『不妊と男性』(青弓社)など。


月刊『ヒューマンライツ』(No.256 2009年7月刊行)に掲載されたものを編集部の許可を頂き転載しました。
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